古墳に入りたい

就活日記

宗教勧誘

現代の聖人か、はたまた迷惑な人たちか???

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※前提として、ぼくは神学的には不可知論の立場をとっています。

 

2日連続で宗教勧誘につかまり、しかもがっつり話を聞くという奇遇な体験をした。これはそのレポートと宗教勧誘の荒い類型化の試み、そして彼らをどう考えるかという問いである。

 

  • 宗教勧誘体験

国立駅前はたいてい政治系の老人たちか議員、あとはカレーのビラを配る外国人がいる。だが昨日は少し違った。

「大切なことが書いてあるんです!」キンキンした声でそう叫びながら道行く人に新聞を押し付けようとする小柄なお婆さん。どうせ共産系でしょ、と思ったがよくよく見ると日蓮の文字が見える。なるほど。そっちですか。富士大石寺顕正会という宗教団体らしい。教義は簡単に言えば、日蓮を信じなければ日本は滅亡!、みたいな。安倍政権とべったりの某学会と対立関係にあるため、政権批判を新聞にしたようだ。所謂、折伏という勧誘が盛んで多少問題にもなっているらしい。

熱心に政権批判をするお婆さん、そして気づけば教団の話にうつる。公明党への怒りが凄まじいらしい。こちらが大学生と分かると、人生の目標は成仏、という話を始めた。

「目標のない人生は、行き先の分からないバスに乗るようなものよ」

という名言を放ったお婆さん。僕は行き先不明のバスに乗るタイプなので無駄ですけどね。本当に人生に迷っている若者はお前のようなババアの戯言を鵜呑みにしてしまうのでしょうか。だとすればそいつは相当なカモだね。

仏教系の勧誘を断るときは、クリスチャンなので、というと良い。相手はだいたい、私も昔は十字架下げてたの、とかキリストから改宗した友人がいるとかほざくけれど、グッバイ仏陀。ジーザス!個人情報は教えずに立ち去る。もらった新聞は大学で捨てた。

 

次に今日のこと。大学を出たところで2人の外国人に声をかけられた。2人ともスーツで、胸には末日聖徒の文字と彼らの名前が刻まれた名札がある。1人はアメリカから来た白人、もう1人はコロンビアから来た黒人。

「いい、Tシャツですねー」と声をかけて来た。モルモン教はボランティアとして宣教師を派遣している。彼らは陽気で、明るく、礼儀正しい。まずは握手だ。キリスト系の勧誘は、キリストについてなにか知っていることはありますか?という質問から入ることが多い。マニュアルでもあるのかもしれないね。彼らに関して言えば、宗教としてのイメージよりもコミュニティ、集まりとしての楽しさを押し出したいようだ。以前キャンパスで韓国系の教会の人から勧誘を受けたときは、パーティの写真をやたら見せられた。寂しい人に訴求するスタイルなんですね。

それにしても押しは弱い。無宗教だといったら、あなたは真理を求めていますか?と聞いてきたが求めてない。求めたとしても君たちのところに真理はないと思うよ。それでも純粋にもっとキリストのことを伝えたいと言われたので、ビラだけもらった。キリスト系の勧誘に対しては、うちは仏教だからが有効だ。子羊たちよ、せいぜい頑張りたまえ。

 

  • 勧誘のスタイル

折伏のような、強制的改宗のようなスタイルはかなり減ってきたのではないだろうか。不安を煽り、脅し、追い込むやり方は相当批判を受けた。

むしろ心理学が一般的に流通する時代ゆえ、マインドフルネスや心の充足を訴えた方が効果的だ。実際イベントなどに紛れ込んで名前を伏せた宗教勧誘が行われるケースもある。

街頭にかぎれば、看板を持ちひたすら待つというスタイルもある。国立ならマックの前でよくみられる、某キリスト系のあれだ。効果あるのかはとても疑問だけれど、声をかけても無駄なら待つのも悪くない。あれは勧誘よりむしろ、にこにこ微笑みながら立ち続ける行為に彼らが自己満足しているのだと思う。張り付いた不自然な笑みがますます普通の人々を遠ざけてしまうのであるが。

生老病死。入信のきっかけとなる要素を抱えた人を国立の街でうっかり捕まえることなんて出来るのだろうか?出来ると思ってやってるのか、それとも若い大学生の力を教団に取り込みたいのか。巧妙な勧誘方法を編み出す一方で、地道で効果のなさそうなやり方も維持される。それは、宗教的実践として、もし断られたとしても彼ら自身にとって意味があることだからに違いない。

宗教勧誘は詐欺師よりも弱い。だからこそ、その弱さが響いてしまう人には心の深くまで届いてしまうだろう。

 

  • 引っかからないために

基本的には、取り合わないことだ。そしてもし絡まれたら、遠い宗教の信者である事にする。個人情報は渡さない。とてもシンプルだ。

されど、引っかかる人はいる。勧誘のスタイルは基本的によわい。問題があるのはいつだって勧誘を受ける側なのだ。

人生の真理を問われたとき 、心はぐらつくだろうか。もしそうならそれは危険かもしれない。心のぽっかり空いた、今まで気づかなかった穴にはまるピースを彼らはたくさんもっている。

とはいえ、たとえ彼らが迷惑などうでもいい人たちと知っていても、一度話してみることだ。 それはそれとして、面白い時間を過ごせるし、自分の中に耐性を作ることもできる。

 

そして忘れてはいけない言葉が最後にひとつ

「神は死んだ。」