古墳に入りたい

大学生活も残り半年でございます

打ち上げ花火下から見るか?横から見るか? はなぜ残念なのか

私は上から見る派。

 

エンドロールが終わると同時に後ろの席の女性2人がため息をついた。映画館の外は大雨で雷も鳴っていて、奇しくもいくつかの花火大会が中止になっていた。劇場全体に観客たちのもやっとした不満が充満しているようで、ユーザーレビュー2点は伊達じゃなかったことを実感する。夏と青春と、ドキドキとワクワクと、弾け飛ぶような感動はそこには無くて、あぁこれは残念な映画なのかとじんわり思った。

 

  • とりあえず良かった点

1PR

アイスとのコラボCM、映画の予告、youtubeでの主題歌のMV、書籍の展開など、期待感がとても高まった。雰囲気は最高。

2映像

シャフト及び新房監督は流石の映像で、綺麗なだけでなくハッとさせられるカットが多い。CGが入るのもダイナミックかつ不自然さがない。

3主題歌

DAOKOを起用しつつ、米津さんを掛け合わせたのは良かった。どちらも紅白も夢じゃないと個人的には思う。

 

  • 残念な点

1ストーリー

過去も未来もない話、という印象。

そもそもなぜタイムトリップできるのかが最後まで謎で終わる。「君の名は」であれば伝説が奇跡の根拠になるし、「時をかける少女」ではSF的な理由づけがある。元のドラマシリーズではタモリが案内人としてifの世界が生まれる理由になっていたのだと思うけれど、映画単品ではさっぱり分からない。

タイムリープもの特有の同じ時間が繰り返される苦痛も大きい、エンドレスエイト状態。もっと浮世離れしたカットを増やして欲しかった。主人公が作り出している世界だということが認識されてからも常識破りは少ない。特に祐介となずなの両親から逃げるシーンで、菅田将暉は「飛ぶよ」というのに飛ばない。ファンタジーに徹するなら飛んでも良かったのでは。

 

2キャラクター

声がダメ!という意見はよく見るがそんなに気にならず。広瀬すずはとてもうまいし菅田将暉も主人公のぎこちなさを表現していた。ただキャラクターの深みはないかなー。たとえばどんな子供だったかどんな大人になるのか、家庭環境、好きなもの嫌いなもの、全体的に薄味でもっと知りたいと思わせる感じもなかった。祐介と典道の関係も親友なんだろうけど、薄い。

特にモヤっとするのが、なずなは典道を好きなのか?問題。はじめに祐介を誘ってるわけだし、典道を好きである理由づけは全くない。あくまでifの世界で典道を気に入っているだけなのでは。そしたら典道が選ばれたのって菅田将暉だったからであって、それ以上の価値はないよね。

反対に、典道や祐介はなずなを本当に好きなのか?というのも謎。「告るから」とは言ってるものの真剣味がない。なずなは可愛い、だから好きという単純さしか感じない。もっと3人の過去を見せて!

 

3終わり方

ラストシーン、なずなは転校し典道は学校にいない。観客に想像させるオープンエンドゆえに典道死亡説まで飛び出している。ただifの世界は明確に破壊されたのでここを謎にしておく意味が分からない。なずなが去ったことがショックだったからサボって海でも見ているのでは?と個人的には想像するけれど、それなら教室の窓から外を見ていても同じだと思う。

もっとひっかかるのはif世界の終わり方。現実から幻想の世界へ行った物語は必ず現実に帰る。他の世界で幸せになることは真実ではないしそれは現実の世界で見ている観客にとって無意味になってしまう。そこで現実を選び取る意志が重要になる。それなのに典道のif世界を壊すのは花火師のおっちゃんであって典道が現実の別れを選んだという感じがない。じゃあずっと空想の中にいたら良かったじゃん!勝手に幸せになりなさいよ、観客なんて放っておいてさ。

 

  • まとめ

「君の名は」の次のヒットを狙ったこの作品。みんなが見るアニメ映画かつ大人も子供も見られるストーリーを目指した。菅田くん×すずちゃんの起用が批判されることもあるけれど、単なるアニメ界のアニメでも邦画でもないハイブリットな感じはいいと思う。

それだけにストーリーの粗さとかキャラクターの薄さが目立ってしまう。その一番の原因は?と考えて見ると……映画が短いことなのでは!90分はさすがに短い。だけど疾走感もない。君の名はでも107分あったんだから。

 

個人的には君の名はで成功したMVっぽさをこっちでも期待していた。音楽と映像がますます接近して欠けているものを埋めていく。そのスタイルはまだまだ追求できるはず。その点最後にDAOKOのforever friendsが流れたのは良かった。打ち上げ花火も劇中でかけてもいいと思うくらいピッタリ。

 

映画がより人気になってきているからこそ、中身はもっと濃密であってほしい。いい意味で期待を裏切ってほしい。古い映画を愛する懐古厨やメジャー作品を毛嫌いする人たちを黙らせるような映画を見たい!そう願ってやまない今日この頃です。

 

 

南条あやは生きている

本名 鈴木純

1980年8月13日-1990年3月30日

職業は女子高生、メンヘラ、ネットアイドルフリーライターリストカッター

 

 

死因は向精神薬中毒、意図的な自殺ではなかった。

 

 

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

 

 

 南条あやの日記は明るい。

度重なる自傷オーバードーズ、繰り返す躁と鬱、父親とのけんか。

過酷な人生の中でも楽しみを見つけて生きている。もちろん鈴木純南条あやは別のものでフィクションだともいえる。例えば婚約者である彼氏の存在は日記の中に出てこない。日記は公開されるために書かれており彼女は確かな表現者だ。ただ圧倒的なリアリティがある。それは彼女が本当に死んでしまったからだ。残酷なことに死んで伝説となった。

日記を読む限り最後まで死を意識する感覚はなかった。病と死の間には大きな壁がある。それをふとした瞬間に、まるで壁に自動ドアでも付いているかのように突然命が失われる。彼女は21世紀を迎えなかった。

 

まさに90年代の女子高生文化の中に彼女は位置するようでいて、どこか普遍性がある。Coccoをカラオケで熱唱して、テレホタイムにはまり、FFが発売されて、渋谷に行って、それでも没頭しているわけではない。時代の空気から抜け出してクスリに溺れてでもそれを言葉に落とす中で客観視している。だからその結末は意外で悲しい。

 

死後、ネット上に追悼掲示板が設置された。オフィシャルページはいまも公開され続けている。

 

南条あやは亡くなったけれど、きっとまだこの世にいる。乱反射して届けられない真っ白な言葉がたくさんある。それを掬い取りたい。細く傷ついた青白い手首を強くつかみとりたい。それは強欲だろうか。それでもいい、それでも。

 

 

 

 

ザイゼンワカコさんに絵を描いてもらった話

とても楽しい時間でした。

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ザイゼンワカコさんはイラストレーター。

 zaizen-wakako

 

 

物語のワンシーンのような、1つの音楽のような絵を描く人です。

 

 

少し前のことですが、そんな彼女の個展に行きました。

 

リクエストに応じて絵を描いてくれるとのこと。何を描いてもらうか、かなり悩みました。

 

主役は以前Tシャツのデザインに使ったお墓ネコ。そこに大森靖子の「PINK」という曲のイメージを合わせてもらいました。

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今、猫をかぶっている寝たふりをしている猫。

でも50年後だか100年後、真っ白な病院で、ありがとうって言われるような。

ピンク色のエネルギーが爆発するような。

そんな絵になりました。

 

 

絵をかいてもらうというのは初めてのことでとても刺激的でした。しかも会話しながら!銀杏BOYZが好きだとか小説の話とかたわいもない話をしつつ絵が足されていきます。自分が丸裸にされるような恥ずかしさも感じつつ「PINK」で1番好きな歌詞について考えました。

 

 

これだけ思い入れの強い曲だからこそ、そのイメージを作るのは難しかったと思います。

でも、「全ての芸術にありがとうって言いたい」という気持ちは、濁りのない本心であり多くの人の気持ちを代弁していると思うのです。こんな難しい注文を受けていただきありがとうございました。

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他の絵と比べてもこんなに浮いてました笑

 

 

 欲を言えば!絵を買いたい!あと、ザイゼンさんといつか一緒に仕事したいですね。

私的ポエム論

これは私的タヒ論をなんとなくまとめるための助走であり、空虚な反論です。

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誰にでも黒歴史ノートなんてものがあったりする。誰にでも、ではないのかな。でも多くの人はある日素敵な言葉を思いつき、そのきらめきに少し浮ついてメモの1つでもしたくなったことがあるはずだ。問題はその出口で、紙にインクで記すことかもしれないし、今ならメモ帳アプリかもしれない。twitterにはクソポエムが溢れる。クソだなんて大変失礼なことを書いてしまった。でもポエムは全てクソであり、クソでない。

 

し【詩】

1 文学の様式の一。自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で表現したもの。押韻・韻律・字数などに規定のある定型詩と、それのない自由詩・散文詩とがあり、また、内容から叙情詩・叙事詩・劇詩などに分ける。
漢詩のこと。

 

 

僕たちがポエムと言うとき、それは詩とは違う。ふわふわしたロマンチックや、過剰なセンチメンタルを指す。ポエマーとは一種の蔑称であり、若さへの嫉妬でもある。ポエムとはよむものであり詠うものであり短すぎず時にやたらと長い。感情の表出であり表現に至らない未熟さ。感傷的、観念的、自己陶酔。

 

分析的ではなく主観的で現実に着地していない言葉がポエムだとすれば、反対に現実のほうこそがポエム化する。例えば政治の言葉は反ポエム的態度を必然的に取らねばならない。にも関わらずその本性はポエジーであり根幹は主観と感覚である。それは届くことを必要とするからであり間主観的に共感できるのは主観の力が必要だからだ。今人気の?日本会議なんてまさに観念的集団である。ポエムとは言葉遊びであり、政治とそれは切り離せない。

 

ポエムは現実を溶かし無力化する。jpopもロックも小説も映画もエンタメは全て心の弱さに漬け込む商売である。経済効率的に合理的選択を妨げる観念がこの世には溢れている。いらんこと考える暇があるなら働けば良い。でも人間は結局文化に縋ってしまう。ポエムは人類の進化を止めた。

 

 

ではポエムは悪いことなのかというとそうでもない。ポエムは誰の心にも住んでいるし全ての言葉は常にポエム化しうる。何かを客観視すること自体もポエムであり主観の檻からは逃れられないことをむしろ鮮やかに示してしまう。

 

ポエムという言葉は人を傷つける。表現を表出に貶める。でも負のエネルギーを持ったポエム、ポエマーという言葉をぼくはあえて採用したくなる。それは自信の無さ、無責任さの表れかもしれない。

 

ポエムのもつ青さが好きだから、私はまだ若いのだから。ポエムをよむ人はやさしい人だから好きだから。そして感情は間違いではない。

でも、でも、表現というフィールドに飛び立とうと思ったらポエムを一度捨てなければいけない。難解さの海に飛び込んで明瞭さを模索したすえに辿り着く言葉が隅々まで染み渡るようなポエムであればそれでいい。それが理想的だ。

 

 

だから、あなたの言葉を捨てないでほしい。ポエムなんて言われたってそれは見る側の目が腐っていただけだ。

 

ポエムなんてポエムだよ。

言葉に境界なんてない。

脱ポエムしながらポエム回帰しながら、ポエムという概念は気づいたら崩壊していく。シナプスからシナプスに放たれた言葉は全て全肯定されるべき表現であり言葉はいつも言葉そのものである。それ以上でも以下でもない。

 

そういうことだからね

 

 

 

 

 

 

 

ケーブル不良

iphoneを白いケーブルでパソコンにつなぐと、ヴー!っと震えて画面に「このデバイスに写真やビデオへのアクセスを許可しますか?」というメッセージが表示される。許可or許可しないを押そうとすると一瞬でメッセージが消えて接続が解除される。と思えばまたヴー!と鳴って表示が出て右上のバッテリー表示に充電中を表す稲妻⚡がでてきた。が、一息つく間もなく、次の瞬間にはそれは消えまたヴー!、消える、ヴー!、消える、ヴー!こんな調子でずーっとヴーヴー鳴っている。

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つまり充電ケーブルが壊れている。そのくせなんどかそれを繰り返すと何もなかったかのように普通に充電が始まる。さっきまでの異常事態はなんだったんだろう。そんなことを三日くらい繰り返している。iphoneのケーブル類は弱いとはよく言われるし自分自身もケーブルを引っ張りがちだからそろそろ寿命が来ているのかもしれない。切れた、切れていないが視覚的にわからない。それに古いテレビみたいにいじっていれば正常に戻ることもある。正常に戻れば使い続けるから新しいものを買おうとはならない。

 

 

イヤホンでも似たようなことが起きる。数か月から半年も使えばたいてい右か左のどちらかが聞こえなくなる。耳に合うかつ音が悪すぎないかつ許せるデザイン・色のイヤホンを見つけるのは大変だからしばらく片耳で聞くけれど音楽は両耳で聞くものだ。じゃあBluetoothにすれば?とも思うけれど、アナログなコードで繋がっている感覚が捨てられない。というか空気中を音楽がワープしてくるなんて受け入れられない。Wi-Fiバリバリ使っているにもかかわらず。

 

 

テクノロジーに気まぐれな不具合を見つけること。それはモノに愛着を感じることに繋がる。0から1の間の不完全な確率でエラーを起こすことが人間らしさだとすれば、まさにその誤謬性こそ愛の正体かもしれない。なかなか捨てられないケーブルはDVから抜けられない夫婦のようだ。頻繁に充電できなくなって暴力を振るわれるのに、時々ちゃんと使えてかわいい奴めと思ってしまう。真っ白なコードがグレーになるまで一緒に居たんだ。簡単には諦められない。

 

今もiPhoneはヴー!となっている。

代わりはいくらでもいるんだけどなぁ……

 

 

 

キミにきめた!を見ることにきめた!

 

見て来た!!

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ポケモン映画公式サイト「劇場版ポケットモンスター キミにきめた!」

 

劇場版ポケモン20作品目にして原点に帰る本作。ピカチュウとサトシの出会いと成長、新しい仲間との旅、懐かしの伝説のポケモンたち。映画のポケモンはそんなに見てないにわかですが。圧倒的にポジティブなメッセージ性を感じた心震えた!!

 

ポケモンバトルで強くなること

=友達になること

 

まさに!ポケモンのテーマって友情なんだよね!!

 

ピカチュウは初めサトシを認めない。しかし、たとえ傷ついても友達でいようとするサトシの行動に胸を打たれる。サトシぃぃなんていいやつなんだお前は!

 

 

重〜い暗〜い意味わから〜ん映画が好きだけど、たまにはこういうのもいいね。

 

目指せポケモンマスター!!

 

 

 

ただ釈然としないことが1つある。

ヒトカゲの喋り方なんだけど。ピカチュウは「ピカ」と「チュウ」、ゼニガメは「ゼニ」?で、フシギダネは「ダネ」。まあまあ理解できますよ。

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で、ヒトカゲは「ヒト」とか「カゲ」?

 

いやいやそれ以前の以前にビジュアルが受けつけないっす。坊主の野球少年をオレンジに塗ったみたいなリアルさがあるよね。あくまで個人の好き嫌いの問題ですよ。でもでもリザードンになれば1番カッコいいんだから良いのです。

 

おわり

 

自傷行為としてのヘイトスピーチについてのノート

真面目なメモです。

 

なぜヘイトスピーチがなくならないのか。

想像力の不足?ストレスのはけ口?教育の失敗?規制の問題?

 

前提として、ヘイトスピーチを他者を傷つける言動として広義に考える。排他的な言葉はこちらが発信者であれば快感かもしれない。しかし関係性が逆転しうることを考えるとそれはリスキーだ。例えば、ある国の人を排除しようとすることは、その国で自分たちが排除される危険性を増大させる。つまり、誰かを傷つけるには傷つけられる覚悟が必要だ、ということだ。その覚悟は、換言すれば心が荒むということだ。

 

では、なぜそんなリスクを冒すのか。

その答えを僕は自傷行為だと考えた。

 

つまり傷つくことをあえてしているのだ。自傷行為の目的は死ぬことではない。1つは自分を確認するため。もう1つは他者に承認されるため。ここでも自傷をかなり広い意味でとる。つまり一種の虚言で自分の立場を悪くしてしまうことも自傷行為だ。そしてヘイトスピーチは言葉を発することであるので他者に驚かれる、ひかれることで自分たちを確認する行為だといえる。反応があることで境界を確定できるのだ。そしてそこには受けいれうる批判や対話はない。それは演技の一種で本当の排除ではない。だからヘイトスピーチヘイトクライムの間には高い壁がある。ただ、クライムもまた身投げ的な意味が強い。あくまでマイノリティとしてマイノリティを攻撃するのである。悪の生産性は存在しない。なにも生み出さない。

 

誰かを傷つける言動は自分も傷つける。

それを好き好んでするのは病んでいる。

 

対話、は必要だけれど難しいのはそれが病だからだ。まず病を脱すること。そのクスリはどこにあるのだろうか。それとも精神薬中毒に陥るだけなのか。

 

それとも、病を病と呼ぶ側もまた別の病に侵されているのだろうか。