古墳に入りたい

大学生活も残り半年でございます

才と材 ディスリスペクトかつエール

お前の鳴らしたBASSの三連音が 果たしてどんな風に鳴っていたか
おそらくお前はわかっていまい
その純朴さとdoingした音の楽しさは まさしく俺を草葉のように震わせた
おまえがその音の特性や無数の立派な順列を 
はっきり知っていつでも使えるのならば
お前は辛くてそして美しい天の仕事もするだろう

だがちょうど今頃お前は年ごろで
お前ほどの素質と力を持っている者は
街と村との一万人の中になら おそらく五人はあるだろう
それらの人またどの人もどの人も 五年の間にそれをなくすのだ
仕事のために削られたり 自分でそれをなくすのだ
今のお前の力が鈍り 綺麗な音が正しい調子とその明るさを失って
再び回復することのないのなら 
俺はもうお前を見ない
なぜなら俺は少しくらいの仕事ができて
それに腰かけているようなそんな大勢を一番嫌におもうからだ
今の俺の力が鈍ったなら いつでも俺を見なくても結構だ

きいてくれ 東京
お前が一人の女を想うようになるその時 お前が一人の男を想うようになるその時
お前が生きるとは 死ぬとは 立ち上がるとは つかむとは もぐるとは ひたるとは
なにか 
それを考えるようになるその時
お前の前に無数の光の影と像が現れる
お前はそれを音にするのだ
みんながいちいち街で暮らしたり いちいち遊んでいるとき
お前は一人で寂しくあの石原の草を刈る
その寂しさでお前は音を作るのだ
多くの侮辱や窮乏を噛んで歌うのだ
沈黙を することを 恐れずに うたうのだ
東京 まじでありがとう
進んでくれよ 
札幌 THA BLUE HERBにマケズにな。

 

www.youtube.com


THA BLUE HERBはラッパー。彼は1999年に六本木で行われたライブでこの曲をうたった。宮沢賢治春と修羅』の中の一節は彼の身体を通って再解釈され、それは知らない誰かの手でYouTubeにあげられ、この耳へと届いて今私の指先を動かしている。

宮沢賢治は報われなかった人であり、それでも創作を続けた人でもある。作り手は、特に言葉を作る作り手は、孤独でなければならない。なぜならそれを誰かが受け取るとき、その人は一人だからだ。隣に誰がいようとも、その言葉はその一人のためのものでしかありえないからだ。

だが、現代の作家はそれほどまでに追い込まれるべきではないとも思う。創作のために命を削り他人を傷つけることはいまやとてもダサい。交流し、会話し、繋がることがいい言葉を生み出す。でも、やっぱりどこかで孤独でいなければいけない。他人が「いちいち」何かをしているときに、何かが違うと思っていてほしい。むしろそう思ってしまうから、たった一人で言葉にうたにするしかないのだ。そうせずに済むのならそうせずに生きればよいのだ。

時は残酷で現実も厳しい。一つの街にそんなやつが五人もいるのだから。ワナビーの群れがとても気持ち悪いと突き放しながら、願うことなしにはたどり着くこともない。それでも紛れないように、埋もれないように、もがくのだ。

きっと辞めたくなるだろう。僕はそれでもいいと思う。それなしで幸せになれるならそうすればよい。でも、その時僕はお前を見ない。お前の魂は冥王星の彼方まで行くこともなく、理解の範疇のつまらないものとして軽蔑されるだろう。だが喜ぶがよい。その時の僕の気持ちの正体は嫉妬に過ぎず、あなたは私の届かぬ地上のある地点までたどり着いたのだ。

誰かが、とくに僕の視界に映る大切な人が傷つくのは見たくないのだけれど。進んでも、引いても。いや、方角や平衡すらも分からずに、焦燥と幸福の中で少しずつ傷ついていく。誰もが傷む。僕はそれを見たくないし、隣に立っているならそっと手を差し出したいと思うのだ。悼む前に何かをしたいと思うのだ。
でも。
時に私は残酷でまさに修羅のように、うっかりと過ぎ去ってしまう。それを申し訳なく思いながら、私自身もうたっていたことを痛感する。

 

五年だ、五年。お前はまだ五年を生きていないし、それは今始まるのだ。
そしてその未来でまた考えたらいい。新しい五年が始まるかもしれない。
宮崎駿は「風立ちぬ」で、才能について10年で勝負がつくと考えた。だがあの映画の中だって次の十年へと向かっていく。

お前にまとわりついた呪いは、けして解けぬものではなくむしろ醒めやすくもろい。だがその不幸が同時に天恵でもあることを思い知るときがくるかもしれない。その時までせいぜいディスられておけばよいのだ。


おわり


THA BLUE HERB 雨ニモマケズより

チェルノブイリに行きました

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1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故は起きた。

それは世界を揺るがす人類史上最悪の出来事であったはずなのに、私にとってはあまりに遠い出来事だった。歴史の授業が描けていない時代の空白、つまり一世代前の現代史は意識からすっぽりと抜け落ちている。当然検索すればでてくることだけれど、まるでフィクションのようにも感じられてしまうものだ。

しかし2011年3月11日福島の原発事故が起きた時から、それは他人事では無くなった。政治的に原発がどうであるとかそういうことも大事だし考えるべきだけれど、それと同時に事故が起きたあの場所をどうしていくか?という現実的問題は無視できなくなった。避難指示が解除されたり除染が進められたり、同時に裁判や責任追及そして再稼働が行われる中で遠くにあるチェルノブイリが気になっていた。多くの年上の人々はその名前を度々出していたし、東浩紀氏がゲンロンでチェルノブイリツアーを企画しているのも興味をそそられた。

だから、大学を卒業してしまう前に一度行ってみることにした。それも一人で。チェルノブイリはツアーでしか入れないのでネットで検索してよくわからないまま申し込んだ。あまり事前に勉強もしないようにした。ただ観光客として、軽い好奇心を動機として陰鬱さを持たずにそこに行ってみたかった。

「学ぶ」ことは素晴らしいことだけれど、時に先入観をできるだけ捨てて直感的に遭遇することが新しい発見につながると信じた。これはそういった旅の記録だ。

 

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  • ダークツーリズム

 チェルノブイリはダークツーリズムの代表的存在だ。人類の負の遺産をあえて訪ねる。悲しみから学ぶことも多くある。そしてそれ以前にダークなものはスリルがある。チェルノブイリでは廃墟がたくさん残されている。崩れかけの建物の中へ入っていくのはドキドキするし、ガラスの破片をこんなに踏みつけたのも生まれて初めてだった。

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大量に捨てられたガスマスク。ここは発電所に最も近い街プリピャチの小学校の廃墟だ。ダークツーリズムでは若干の演出も含んでいる。例えば当時のものに見える楽譜が落ちていたり、怖く見えるように人形が並べられていたり。

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 これは室内の飛び込みプールとバスケットコートがあったスポーツ施設の廃墟。プリピャチはかなり大きい街で5万人ちかくが暮らした。発電所で働く若い家族が中心だった。今では森に囲まれていてその中にコンクリート造りの廃墟が立ち並ぶ。ゴーストタウンである。

ガイドはできるだけ奥へ奥へ旅行者を連れて行こうとする。ツアー参加者も恐怖心と好奇心を覚えながら探検を楽しむ。そのガイドと地元警察がもめていたのが印象的だった。過去にツアー参加者が廃墟でケガをしたらしく、多くを見せたいガイドと安全を守ろうとする警察の間でひそかに対立がおきていた。

フクシマでいえば約四半世紀先の未来、普通の小学校やマンションの廃墟を旅することをなんとなく想像した。見慣れた町が森に包まれてゴーストタウンになっていく。そこを世界中の人々がドキドキしながら歩いていく。そんな時が本当にくるのだろうか。

 

  • のどかな

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発電所付近にはチェルノブイリという名前の新しい街ができている。一時的に滞在する人のための施設や廃炉作業をする人のための建物が立ち並ぶ。観光客もツアーによっては泊まることができるらしい。

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事故当初に亡くなった消防士を慰霊する像があった。ツアー参加者はこういったスポットでマイクロバスからおりて写真撮影をする。

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そして遠くに発電所本体が見えてくる。銀色に光るのは「石棺」を覆う新シェルター。川には大きななまずが泳いでいて気持ちのよい天気だった。この場所であの事故が起きたということが信じられない。作業自体はずっと続く。

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惨劇は想像を絶するものであったはずだ。発電所の周りはあまりにも静かでそれが逆に不気味だった。人類の英知によって封じ込めたかに見えるけれど、その圧倒的な存在感は異常だ。

 

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ツアーコースは基本的に除染が進んでいる。とはいえ森の中にはホットスポットがたくさんあって、ガイガーカウンターをかざすと警告音が鳴る。目に見えない恐怖は残っている。

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汚染を外に持ち出さないように出口で2度放射能チェックをする。ここで引っかかると除染しないと帰ることができないらしい。当然汚染区域では地面を触ることが禁止されている。飲食も禁止。内部被ばくの恐ろしさを説明される。

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観覧車の廃墟に向かう図。半袖半ズボンはできるだけ避けたほうがいいとHPには書いてあるが意外とゆるい。ただ地面は汚染があるのでしっかりした靴は必須。

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最も高い線量を記録した、「クロー オブ デス」。汚染されたものを処理するのにつかわれていた。通常1マイクロ、高くて2マイクロシーベルトが汚染区域の標準だが、ここでは200マイクロシーベルトを記録した。

汚染された木が埋められている「赤い森」もかなり危険で、その間をバスで通るだけでガイガーが鳴る。ここでバスを停めることすら禁止されている。そんな呪いみたいな場所がこの世界にあるということに衝撃をうけた。

 

  • 「感じ」

チェキやスマホの写真を撮りながら、たとえそれがチェルノブイリであってもいい感じになってしまうことに気づく。ドキュメンタリーをテレビで見ても、写真集をめくっても、この場所はなんとなくの感じを持ってしまう。それが少し怖い。チェルノブイリとはある一定時間のメディア経験にしかならない。なんとなく怖い感じの、なんとなくが引っかかる。

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だから、現地に行かなければいけない。割れたガラスの感触や高線量の不気味さや検問の厳格さを体験しなければいけない。発電所を覆うカバーの巨大さやゴーストタウンの有様はそこでしか分からない。

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チェルノブイリツアーは別に全人類の義務ではない。でも現に原発を使いそして事故を起こした以上、ここにくる意味はある。そして、25年後日本人はチェルノブイリに行く側から福島に迎える側になる、はずだ。チェルノブイリもかつてソ連時代からかなり隠蔽されてきた。それが徐々に後世に引き継ぐべき経験として開かれるようになった。除染は限界まで進む。でもそこには確かに限界があって、もはや生き返らない街、死んだ土地がこの国にあることを認める勇気が必要だと感じた。

ここに一人で行って良かった。

 

おしまい

 

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 ゴーストタウンに暮らす猫。観光客の人気者。

 

※気が向いたらこの記事は追記予定

 

 

森友学園の(建物の)今

あれってどうなったんだっけ?って思うことが最近よくあります。森友学園はその筆頭で、籠池夫妻なんてあんなに盛り上がったのに気づけば、「このハゲー!」の人とか加計学園なんかにやられてしまって……結局何がどう悪かったかもやっとしたまま夫妻は逮捕されてしまいました。

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そんなわけで?大阪ついでに豊中に立ち寄りました。梅田から15分くらい。

夏の暑い中、幹線道路をしばらく歩いてしずかな住宅街にはいります。大きくて新しく綺麗な公園の横にはテレビで見た赤い建物が!赤の赤が思った以上に深みのある色で綺麗。あと、「安倍晋三」といれようと考えていたらしい校名の部分は確かに不自然な空白があります。裏側に回ると木材が少し積んでありましたが、建物の工事自体はかなり終わっているようです。

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正面からみるとこんな感じ。どこも策に囲まれています。

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籠池さんの名前が。印象的なのはやたらと国有地です、という看板が出ていたこと。今は国有地扱いになってるんですか?

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遠くから見た感じ。隣には大阪音楽大学がありとてもいい環境です。ニュースを見た感じゴミが埋まっているとか高速と空港が近いとかごちゃっとしたイメージができていましたが、実際は住みやすそうな街です。

写真を撮っていたのは他に1人でした。あとは地元のおじいさんがとなりの公園で学園を眺めていたり、自転車で通る人が指差していたり。メディアが殺到してたのはもうずいぶん前のことですから今は相当しずかな場所になってます。

 

結局あの建物はどうなるんですかね?

思想云々は置いておいても、わりといい建築だと思うので活かしてあげてほしいと思うのですが。

 

世間が完全に忘れた頃にまた行ってみたい場所でした。

地獄を具現化するー大阪 全興寺

大阪環状線から少し外れた閑静な住宅街の地元感溢れるアーケードを進んで行くと、地獄に到着する。

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全興寺は平野区にある薬師堂。

全興寺公式HP_せんこうじ平野区

 

大阪を観光しよう!と思った時にここに行く人はあまりいないと思うのだけど、知る人ぞ知る珍スポットであり、なにより地元の人に愛されているのを実感できる場所でした。なぜ珍なのかというと、このお寺には地獄があるのです。

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これが地獄の入り口。

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HPにものっている裁きを実際に受けられます。結構単純な仕組みで運命は決まってしまうみたい。

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小屋の中には地獄の光景があり、もちろん閻魔様がいます。

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恐ろしい鬼の横にある画面に地獄の解説映像が流れ、それぞれの地獄の特徴を教えてくれる。釜茹でとか、龍にのまれるとかいろいろあるけれど、やっぱり三途の川が一番キツイみたい。

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最後に伝えたかったのはこの一言でした。

薄暗く狭い小屋の中で恐ろしげな映像が流れる地獄。小さい子ならトラウマになりそうですよ。

 

現代社会における宗教の役割が変化する中でシンプルに、命を大切に!というメッセージを宗教側が発するのはいいことだと思います。一方で、物語的な部分がないと思いは届きにくい(ちょっと怖いくらいがいい)けれど、胡散臭さを感じさせてしまうのも事実。例えば、日本人にとっては仏像は地味な色合いだけど、タイに行けば金色で色鮮やかなことも多い。静かで落ち着くものではなくて、アクティブなものとして仏教が生きてるんだなと感じますよね。じゃあ日本にそんな仏像や寺があったとしたら、新興宗教なのかな?と思ってしまう。教義の根本的な部分には共感できてもその周囲の世界観が受け入れられなくするのです。

 

全興寺の地獄は宗教的ではあるけれど、地獄というもの自体は共通の文化になっているとは思います。そして、そこにお経や仏はほとんどでてきません。あくまで地獄から逃れるのに必要なのは自分自身の現世での善行、それも誰もが賛同しうるレベルの良い行いをすることなのです。それはたとえば、思いやりとか感謝とかそういったものです。

 

ここにVR技術を導入して、よりリアルな地獄を作るのも面白いんじゃないかと。ただ、今のちょっとしたチープさが無くなるとより洗脳されてる気分になりそうです。

 

訴求力の強い作り込み(洗脳)

VS

脱宗教、世俗、エンタメ

 

のちょうどいい落とし所が全興寺の地獄なのでは?と思う今日この頃でした。

 

おわり

 

敗れ去った球児達へ

夏の終わりに想うこと

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甲子園が終幕した時に書こう書こうと思っていたけれど、この暑さでどうにもやる気が起きなかった。でもやっぱり書いておこうと思う。

 

甲子園は特別な場所だ。球児もまたスクールカーストでいえば最上位で、学校中が応援する。よほど弱すぎるチームでなければ野球部は学校というシステムの中心にいる。文武の武は今ではバットを持った球児のことだ。だから高校野球とは代え難い、異常なものだ。

いろんな人に高校時代の話を訊くと、球児を応援していた人と冷ややかに見ていた人がいるのに気づく。なんで野球だけが特別なんだろう。授業中野球部はだいたい寝てた。ノリはいいけどちょっとウザい?でも、やっぱり応援してしまう。

グラウンドは女人禁制で、マスコミも大注目、タバコを吸ったら出場停止、甲子園に出れば地元の誇り。あのクソ暑い中で運動するなんて、膝が壊れるまで投げさすなんて、まさに現代のコロッセオなんて言われたりする。そのうえ品行方正で礼儀正しい球児たるための倫理観まで求められるのだから大変だ。野球はスポーツじゃなくて、精神を鍛えるものという認識があるらしい。でも、実際いいやつは多い気もする。高校までストイックに夢を追ってきているわけで素直に尊敬できる。

球児はやっぱり特別だ。球児であるための練習に打ち込んで研鑽を積んでいるのだから。

 

しかし、甲子園は残酷だ。魔物は1チームずつ球児達を殺す。昨日までみんなのヒーローだったやつが、敗れ去った元球児になってしまう。週明けの学校でみたその光景はあまりに自然で悲しいとも思わなかった。でも胸中お察ししてしまうわけで、一体あの時彼らは何を実際思っていたのだろう。本気じゃなかった、のかもしれない。本気でプロになれるなんて冗談みたいだよね。それでもあれだけ頑張ってるんだからさ、調子にだって乗ったっていいじゃないの。それにもしかしたら、もしかしたらでられるかもしれないのが甲子園だから……。でも、甲子園に出たって苛酷さは増すばかり。弱いチームは恥を晒すし、プレッシャーはどんどん重くなる。それに、甲子園の砂を持ってたからって大学に入れるわけでもお金がもらえるわけでも仕事になるわけでもないんだ。元甲子園!の証、それは自慢話にはなるけれどただの砂だから。阪神園芸のね。

 

私たちはよく誰かに夢を託す。自分で背負うには重すぎるから、きっと自分を追い抜いていく誰かにそれを投げつける。最低なことだと思う。

それは就活してた時に特に感じたことだった。夢のような新人がイノベーションを起こしてくれるなんて期待しないでよ。たいていの学生は普通に普通のことを頑張ってきたんだよ。それはいつの時代も変わらないんだよ。面接をしてるあなただって昔はきっとそうだったのに、理想をぶつけてくるのは本当に醜い。それでいて会社は過労だなんだで新人を死なせる。自分が楽になるための過剰期待からだれも抜け出せない。人事は球児が大好きだ。彼らはきっと甲子園みたいに見果てぬ夢を追ってひたすらに走ってくれるはずだから。でも根性根性なんて言ってるうちに気づいたら線路に飛び込んでいる人がいることを忘れちゃいけない。

でも、託すのは悪いことばかりではないし託されたいと思うこともある。背負いたい、繋ぎたい、与えたいっていうのは人間が存続する上でとても重要な感情だ。それに甲子園を見ながら、一緒になって熱くなれるのは素敵なことだというのは間違いない。だから、せめて託しすぎるあまりに殺してしまうこと、自分を軽くしすぎることを知っているだけでも、時に人間が最低な生き物だと認識することだけでも意味はあるんじゃないかな。

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話を球児に戻す。

球児は特別な存在なんだけど、敗れた瞬間からただの高校生になる。野球の神様はめったに微笑まないから、野球で生きていくなんてほぼ無理だ。あの夏、あの瞬間、彼らは人生で最高潮に輝き。輝きは花火みたいに散って、夏は終わり、秋の虫が鳴きはじめる。涼しい風とともにこれからの人生が始まる。それはたぶんちょっと寂しい。期待されることに慣れすぎると、それなしでは苦しくなる。そしていつのまにか月日は流れ、自分が期待をかける側になっている。そんな球児たちのその後の人生を私は毎夏想像してしまうのです。

コロッセオの闘士でいられたあの夏は異常な時間で、観客たちは次の年になれば新しい犠牲者を望む、血に飢えた観衆。球児は傷つかない。俺たちよりずっと丈夫な身体を持つ異種族だから。

そして敗れ去った球児の涙を見て私たちは人間らしさを感じる。もう終わりだよ、残酷な時間は。辛い練習は。熱闘甲子園、あまりに多くを背負いすぎだよ君たちは。1つずつおろして、楽になって、「甲子園を目指す球児」ではないあなた自身としての人生が始まっていくその瞬間。

 

夏の終わりは君の始まり

 

 

 

 

打ち上げ花火下から見るか?横から見るか? はなぜ残念なのか

私は上から見る派。

 

エンドロールが終わると同時に後ろの席の女性2人がため息をついた。映画館の外は大雨で雷も鳴っていて、奇しくもいくつかの花火大会が中止になっていた。劇場全体に観客たちのもやっとした不満が充満しているようで、ユーザーレビュー2点は伊達じゃなかったことを実感する。夏と青春と、ドキドキとワクワクと、弾け飛ぶような感動はそこには無くて、あぁこれは残念な映画なのかとじんわり思った。

 

  • とりあえず良かった点

1PR

アイスとのコラボCM、映画の予告、youtubeでの主題歌のMV、書籍の展開など、期待感がとても高まった。雰囲気は最高。

2映像

シャフト及び新房監督は流石の映像で、綺麗なだけでなくハッとさせられるカットが多い。CGが入るのもダイナミックかつ不自然さがない。

3主題歌

DAOKOを起用しつつ、米津さんを掛け合わせたのは良かった。どちらも紅白も夢じゃないと個人的には思う。

 

  • 残念な点

1ストーリー

過去も未来もない話、という印象。

そもそもなぜタイムトリップできるのかが最後まで謎で終わる。「君の名は」であれば伝説が奇跡の根拠になるし、「時をかける少女」ではSF的な理由づけがある。元のドラマシリーズではタモリが案内人としてifの世界が生まれる理由になっていたのだと思うけれど、映画単品ではさっぱり分からない。

タイムリープもの特有の同じ時間が繰り返される苦痛も大きい、エンドレスエイト状態。もっと浮世離れしたカットを増やして欲しかった。主人公が作り出している世界だということが認識されてからも常識破りは少ない。特に祐介となずなの両親から逃げるシーンで、菅田将暉は「飛ぶよ」というのに飛ばない。ファンタジーに徹するなら飛んでも良かったのでは。

 

2キャラクター

声がダメ!という意見はよく見るがそんなに気にならず。広瀬すずはとてもうまいし菅田将暉も主人公のぎこちなさを表現していた。ただキャラクターの深みはないかなー。たとえばどんな子供だったかどんな大人になるのか、家庭環境、好きなもの嫌いなもの、全体的に薄味でもっと知りたいと思わせる感じもなかった。祐介と典道の関係も親友なんだろうけど、薄い。

特にモヤっとするのが、なずなは典道を好きなのか?問題。はじめに祐介を誘ってるわけだし、典道を好きである理由づけは全くない。あくまでifの世界で典道を気に入っているだけなのでは。そしたら典道が選ばれたのって菅田将暉だったからであって、それ以上の価値はないよね。

反対に、典道や祐介はなずなを本当に好きなのか?というのも謎。「告るから」とは言ってるものの真剣味がない。なずなは可愛い、だから好きという単純さしか感じない。もっと3人の過去を見せて!

 

3終わり方

ラストシーン、なずなは転校し典道は学校にいない。観客に想像させるオープンエンドゆえに典道死亡説まで飛び出している。ただifの世界は明確に破壊されたのでここを謎にしておく意味が分からない。なずなが去ったことがショックだったからサボって海でも見ているのでは?と個人的には想像するけれど、それなら教室の窓から外を見ていても同じだと思う。

もっとひっかかるのはif世界の終わり方。現実から幻想の世界へ行った物語は必ず現実に帰る。他の世界で幸せになることは真実ではないしそれは現実の世界で見ている観客にとって無意味になってしまう。そこで現実を選び取る意志が重要になる。それなのに典道のif世界を壊すのは花火師のおっちゃんであって典道が現実の別れを選んだという感じがない。じゃあずっと空想の中にいたら良かったじゃん!勝手に幸せになりなさいよ、観客なんて放っておいてさ。

 

  • まとめ

「君の名は」の次のヒットを狙ったこの作品。みんなが見るアニメ映画かつ大人も子供も見られるストーリーを目指した。菅田くん×すずちゃんの起用が批判されることもあるけれど、単なるアニメ界のアニメでも邦画でもないハイブリットな感じはいいと思う。

それだけにストーリーの粗さとかキャラクターの薄さが目立ってしまう。その一番の原因は?と考えて見ると……映画が短いことなのでは!90分はさすがに短い。だけど疾走感もない。君の名はでも107分あったんだから。

 

個人的には君の名はで成功したMVっぽさをこっちでも期待していた。音楽と映像がますます接近して欠けているものを埋めていく。そのスタイルはまだまだ追求できるはず。その点最後にDAOKOのforever friendsが流れたのは良かった。打ち上げ花火も劇中でかけてもいいと思うくらいピッタリ。

 

映画がより人気になってきているからこそ、中身はもっと濃密であってほしい。いい意味で期待を裏切ってほしい。古い映画を愛する懐古厨やメジャー作品を毛嫌いする人たちを黙らせるような映画を見たい!そう願ってやまない今日この頃です。

 

 

南条あやは生きている

本名 鈴木純

1980年8月13日-1999年3月30日

職業は女子高生、メンヘラ、ネットアイドルフリーライターリストカッター

 

 

死因は向精神薬中毒、意図的な自殺ではなかった。

 

 

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

 

 

 南条あやの日記は明るい。

度重なる自傷オーバードーズ、繰り返す躁と鬱、父親とのけんか。

過酷な人生の中でも楽しみを見つけて生きている。もちろん鈴木純南条あやは別のものでフィクションだともいえる。例えば婚約者である彼氏の存在は日記の中に出てこない。日記は公開されるために書かれており彼女は確かな表現者だ。ただ圧倒的なリアリティがある。それは彼女が本当に死んでしまったからだ。残酷なことに死んで伝説となった。

日記を読む限り最後まで死を意識する感覚はなかった。病と死の間には大きな壁がある。それをふとした瞬間に、まるで壁に自動ドアでも付いているかのように突然命が失われる。彼女は21世紀を迎えなかった。

 

まさに90年代の女子高生文化の中に彼女は位置するようでいて、どこか普遍性がある。Coccoをカラオケで熱唱して、テレホタイムにはまり、FFが発売されて、渋谷に行って、それでも没頭しているわけではない。時代の空気から抜け出してクスリに溺れてでもそれを言葉に落とす中で客観視している。だからその結末は意外で悲しい。

 

死後、ネット上に追悼掲示板が設置された。オフィシャルページはいまも公開され続けている。

 

南条あやは亡くなったけれど、きっとまだこの世にいる。乱反射して届けられない真っ白な言葉がたくさんある。それを掬い取りたい。細く傷ついた青白い手首を強くつかみとりたい。それは強欲だろうか。それでもいい、と思った。